Isn’t it judgy?

留学当初にイマイチ腑に落ちなかった概念がJudgeだ。

 

Judge (Google dictionary)

Noun; a public official appointed to decide cases in a court of law.

Verb; form an opinion or conclusion about.

 

判断(Judge)することの何が悪い?普段人々とかかわる中で色々なことが起こる。良い人も悪い人もいないのかもしれないけど、皆それぞれの性格や特徴・癖があってそれらが時を経るごとに少しずつ見えてくる。そこからその人との関わり方が、自分なりに分かってくるのでは?

 

そう思っていた僕はなんでJudgy(Judgeが形容詞化したもの、語尾にyをつけると形容詞になるスラングは多い)がいけないのか疑問だった。

 

時を遡り2011年。前職入社当初に帰国子女の同僚に『ときおり君にJudgeされているように感じる』と言われた。その時も『人間同士の関わりでそれは避けられないだろう』と正論をぶちかましてしまった。(ゴメンナサイ)

 

ではなぜJudgeがいけないのだろう? Power & NegotiationというSloanの名物講義からの例を交えて考えてみたい。

 

Power & Negotiationは文字通りNegotiation技術を高めようというレクチャー。面白いのは途中からゼロサム、つまり限られたパイの中から自己の取り分を上げていくのではなく自分と交渉相手の利益の総量を上げることを通して結果的に自分の利益もしくは幸福量を上げようという方向にシフトしていく。

 

ロールプレイが中心の授業で例えば祖父を失った兄弟が遺産整理をする中で見つかった貴重品リストをにらみ合い、どちらが何を得るか交渉する。当然高価なものはどちらも欲しい。ただ兄弟間で価値の感じ方が違う品物も存在する。(兄は絵が欲しいが弟はそうでもないなど)それらを踏まえどう分ければ互いの満足度(絶対値としての利益だけでなく公平感も含まれる)を高められるのかを話し合った。

 

Key take awayは信頼できる交渉相手と協力的な関係を築き、情報をオープンにシェアすることが結局自分にとって最善だということ。これはその回だけではなく講義全体として伝えられていたテーマに感じる。

 

別の回ではいかに相手側が抱えているコンテクスト、ストーリーが見えづらいかについて扱った。その際に社内政治で皆が長い間一緒に働いていく際に積み重ねられた期待値や約束、その中で少しずつすれ違っていった人間関係について学んだ。

 

話を戻しJudgeについて。Judge、つまり相手について何かしら判断してしまうことはオープンに情報共有をすることの対極にあるのではないだろうか。分からないことを全体に理解を深める努力が自然に限定されてしまうし、やはり限られた相手の情報と自分の人生経験から相手を理解したつもりになるのはDisrespectfulだろう。(書いていて耳が痛い…)

 

日本語では『決め付ける』がこれにあたると思う。西洋文化の中ではその閾値がだいぶ低いというのが僕の印象だ。Diversityを前提にしているアメリカでは特にそうだろう。

 

それでも知らず知らずに傷つけ、もしくは傷つけられることは残念ながらよくある。例えば最近同級生のJennyから『今日寒いのは分かっていたのだから、そんなに寒がるならドレスは着てこなければ良かったじゃない』と言った男性がSexistだと批判されてしまった話を教えてもらった。女性には当然の感覚なのかもしれない。でも情けないことに何がOffensiveだったのか僕にはあまりピンとこなかったし、言ってしまった男性も同様だったろう。

 

Feminismは本当に難しい。今後の社会の発展にものすごく重要な一方、1人の男性としてどんなに気をつけていても足もとをすくわれてしまいそうな、怖いものと感じてしまうこともある。だからこそ尚更、JudgeせずOpenにお互いの感覚を知ろうとする努力が必要なのかなと思う。その点、ドレスを指摘したことで逆に注意されてしまった男性は幸運だ。

 

忖度を美徳とする環境から来た人間として、行間を読むスイッチを出来る限りオフにしたコミュニケーションは仕事上で死活問題。何か物事を伝えるときも誤解のないよう意図を正確に丁寧に伝えよう、と気をつけている中でVocabularyの重要さを改めて認識した。父親から『英語は単語だよ』とことあるごとに言われていたのだがそういうことだったのだろうか。 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

 

今度聞いてみよう。